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昨日、熊野市文化センターで、開かれている「林業華やかりしこの夢」という副題で「保色山を巡る大又国有林の今昔」の展示会と「ギャラリートーク」に参加してきました。
写真展示会は、9/26から始まっており、昨日が終了日で、見学者は約延べで500人程で、昨日のギャラりートークは、主催が用意した会場では入りきれなくなり、急遽会場をホールに移すほどの盛況で、150人の参加でした。
熊野市の人口比率で行けば多くの人々が参加しているのです。
如何に大又国有林が地域との深い関係にあったかということです。
熊野在住の作家である中田重顕氏の案内進行で始まりました。
メインの語りは、小阪在住の竹平巨嗣氏です。
竹平さんの先祖は大又国有林の中で、お墓もあります。氏は中学を出るとお父さんが働いていた国有林内に入り、バラック建ての小屋の中で生活しながら働いてきて、60歳の定年まで、大又国有林で営林署職員として、この大又国有林で生きてきた方で、現存する人では、数少ない生き証人で、その「歴史を語れる」最高の方です。
80年に及ぶ大又国有林の歴史を2時間弱で語れというのは酷な話ですが、実によく整理されて、生きた歴史を再現しながら、大又国有林の歴史をわかりやすく語ってくれました。
語られた全部を再現したいですが、無理なので、私の「理解と感想」を報告します。
大又国有林は、熊野川の源流である大又川の源流域に当たる処で、2200町歩という広大な広さの所で、
モミ、ツガなどの広葉樹の天然林でした。明治政府が、林業が国家財政を支える重要なだとして、明治3年に国有林に編成し、大正13年から、このモミ・ツガを伐採搬出を始めます。以降、昭和36年まで、この広葉樹の木々を切り倒し続けてきたのです。
熊野で一番高い山の保色山を囲むようにしているこの大又国有林は、大阪営林局の新宮営林署がこの作業を担ってきました。40年間、伐採、搬出をやり続けてきたのです。そのためには、働く人の住宅が100軒を超え、小学校も置かれていました。熊野市の国道42号線の大又から、歩いて3、4時間ほどかかるという地に一つの地域が作られたのです。
郵便屋さんは郵便配達に入るのに片道3時間かけて入ったそうで、途中でクマに何度も会うようでした。
国策として、この大又国有林の果たした役割は巨大であったと思います。大阪営林局の「ドル箱」としてもてはやされていたそうです。
広葉樹の木を伐り出した後には、杉・檜の人工林が作られていきます。広大な広葉樹の天然林の後に、杉・檜の人工林が造られていきます。営林署は、広葉樹の伐りだし、搬出と人工林づくりという二つの機能を担ってきました。1987年からは、この人工林の杉・檜が50年伐期で、伐りだしが始まったようです。現在では、もう「保安林」としてほとんど活用されることもなく、この国有林を維持管理する営林署職員は、たったの二人というところまで担っています。
熊野が木の国としてその歴史が、この国策としての林業の盛衰と運命一体として、盛衰の歴史だったのだとあらためて思いました。
熊野には、その歴史の結果、過疎化の現実が、そして、広葉樹の山が、杉・檜の人工林に代わってしまうことで、山が荒れ、保水力が無くなり、いつ九州で起こったような地震や台風による山の崩壊=大洪水が起こっても不思議でないような状態の危険を抱えてしまっています。大又川は、源流域として綺麗さはありますが、水が少なく、痩せてしまっており、自然の崩壊が進行しています。
大又国有林の歴史をしっかりと検証することで、山=林業の再生、地域の再生を考えなければと思いました。
竹平さんは、82歳です。大又国有林の生き証人としての氏の話をもっともっと聞きたいと思いました。
と同時に辻本さんの現在の三ツ口山での「広葉樹の山造り」のその先見性にあらためて感激しました。
辻本さんは、竹平さんと一緒に大又国有林で働き、辻本さんは、広葉樹の伐採後の杉・檜の人工林づくりを担ってきました。その中で、昭和30年代後半から40年代の前半頃に、杉・檜の人工林づくりに根本的に疑問も抱いたのだ言います。当時、幾人かの方がこの杉・檜の人工林づくりに疑問を持ったようでしたが、その疑問を実証的に新しい山造りで乗り越えようとしているのは、私が理解する限りでは、日本ではただ一人の人ではないかと思います。